赤いフリージア

大学院博士課程に在籍し、現代英米圏環境美学研究をしている院生のブログです。

分析美学勉強会のお知らせ(6月19日)

すでに森さんが告知されていましたが、今回レジュメを切らせていただいたのでわたしからもお知らせしてみます。

 

きたる6月19日(金)20時より、東大本郷キャンパスにて分析美学勉強会があります。

Matthew Kieran, "For the Love of Art: Artistic Values and Appreciative Virtue" Royal Institute of Philosophy Supplement 71: 13-31.(2012)という論文を読みます。

philpapers.org

 

われわれはふつう、芸術作品には価値がある、と考えます。しかし、なぜそのように評価するのでしょうか?

よくよく考えてみれば、われわれはしばしば、芸術作品の価値を道具化しているように思われます。たとえば、社会的に何らかの利益を生み出すとか、モーツァルトの音楽は胎教によいとか、名画を(本当はそう思っていないのに)「よい作品だ」と言うことで通ぶったりするとか、こういったことはすべて、芸術作品をそれ自体の持つ内在的な価値のために評価しているわけではありません。このような道具的評価にもとづいて事を進めていくと、わざわざ芸術にこだわらなくても同じ効果をもたらす別のものでもよい、という主張をされかねません。たとえば美術館ではなくてテーマパークを建設したほうが地域が活性化する!ということになれば、わざわざ社会的利益のために芸術に投資をする必要はない、ということになりえます。このように、たとえば公的な資金を投入するという場面などにおいて、まさに芸術に投資をする、その理由の正当化として、芸術の価値の道具化はつよい説得力を持たないのです。

このような芸術作品の価値の道具化に対してなしうるひとつの抵抗として、唯美主義aestheticismがあります。この立場は、芸術作品の鑑賞に際してはただ作品が持つ形式であるとか、美であるとか、その作品の中にある性質のみに注目しよう、と説きます。はたして、この立場をとれば芸術作品の価値の道具化に打ち勝つことができるのでしょうか?このように考えるとき、唯美主義には大きな問題があります。それは、さまざまな種類の芸術が持ちうる価値を、あまりに狭い範囲へと切り詰めてしまうという難点です。

では、道具化への対抗としてほかにどのような方法がありうるのか――Kieranが挑むのは、まさにこの問いであると言えるでしょう。Kieranの議論の独自性は、芸術作品の価値とはただ作品そのものの持つ特性から引き出されるのではなく、作品がわれわれに対してある種の能力を行使させること、そして、その能力はわれわれの人格の徳性にかかわるものである、という徳理論的観点を導入することにあります。レジュメを作りつつ読んでいましたが、いろいろ疑問は残るものの、示唆に富む論文であると思います。

 

というわけでご興味持ってくださる方はぜひ。学部生の方の参加も歓迎です!